事件はとてつもない大きな余波をメディア業界全体の残しました、まだまだ収束の道が見えない中、当事者である彼女の活動を我々は静観したい。社会全体としては、表現の自由に対する世論の指摘や、被害を訴える人への理解が広がる一方で、芸能人やテレビ局、ファンによる「無神経な反応」に対する批判も強く、タレントやマスメディアに対する信頼感が揺らいでいます。このスキャンダルは、個人の倫理を超えて、テレビ業界の構造的問題への関心を喚起しているのが現在の世論の特徴といえるでしょう。
なぜいま、書籍を出そうと思ったのか。それは、私自身の体験を記すことで、同じような苦しみを抱える人の助けになりたいと考えていたところに、ちょうどオファーをいただいたからです。再出発した昨年10月から執筆に取り掛かり、本を出版できたのが1月29日でした。
’23年6月のあの夜、恐怖で身体が動かなくなり、「助けて」が届かない絶望を知りました。身体と心が乖離し、何が起きているのかもよくわからなかった。生命の危機すら感じる出来事でした。



以来、生活は一変。身体に力が入らず、浮遊しているように視界も揺れる。自分が自分じゃなくなっていく感覚でした。 食事も摂れなくなり、体重は9㎏減って生理も止まりました。’23年7月に栄養失調で入院しましたが、入院中もフラッシュバックが頻発し、体調はどんどん悪化していった。 当時は、「早く仕事に復帰しなきゃ」という焦りもありました。病室でテレビをつけると、私の担当していた番組に別のアナウンサーが出ている。SNSを開くと、学生時代の友人が人生を謳歌している様子が溢れている。私だけが社会から取り残されているという不安で苦しみました。
【電子版だけの特典20カット付き】渡邊渚フォトエッセイ 透明を満たす元気になったとしても、戻る場所はない。やがて、誰からも忘れられる……。自分が透明人間になったような気持ちでした。 正直に告白しますが、入院して2週間が過ぎたころに、「すべてを終わらせたい」と思い、自分の身体を傷つけて死を求めてしまったこともあります。トラウマになった日と、自傷行為をした日、私は「2度死んだ」と思っています。 新潟出身の渡邊さんは、’04年の「新潟県中越地震」を機に、毎年10月に“遺書”を書くことを習慣にしてきた。彼女は当時7歳。震災を通じて生きていることが当たり前じゃないと知り、家族や大切な人へのメッセージを記すようになったのだという。
「遺書」といってもネガティブなものではなく、前向きな内容を書いてきました。ただ、’23年10月だけは何も書けませんでした。文章にしてしまうと、本当に死を選択してしまいそうだったからです。

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自傷行為の数日後、精神科に移り、PTSDと診断されました。病名を言われたときは少しホッとしましたね。これまでの自分の行動が、病気のせいだったとわかったからです。 PTSDの治療はつらかったですが、特に「持続エクスポージャー療法」は過酷でした。あえてトラウマの記憶に触れて整理し、不安や恐怖に慣れることでトラウマを乗り越えていくことを目指す認知行動療法です。 私の場合、トラウマを想起させる食べ物の写真を見ることから始めましたが、最初のうちは写真を見るだけで吐きそうになりました。治療期間中は歩くこともままならず、記憶も途切れ途切れで、実家の場所すらわからなくなったこともありました。